創業明治十年から、飯塚のまちとともに
ORIGIN OF THE NAME
元野木(もとのき)という珍しい苗字には、こんな言い伝えが残っている。
はるか昔、先祖の一人が旗を手に合戦へ向かい、生きて帰ってはきたものの、持っていたはずの旗は失われ、手元には棒だけが残っていたという。この「もとの木(棒)」が、代々「元野木」の名として伝わってきた。
どんな状況でも生き延びて帰ってくる——そんな先祖の粘り強さにあやかり、今も新しいことへの挑戦を大切にしている。
OUR PHILOSOPHY

OUR HISTORY
創業者・元野木慎平は、もとは黒田藩(福岡)の武士。宿場役人の「下代」として黒崎宿に勤め、幕末には、政変で都を追われた公家たちを太宰府へ移す際のお供も務めた。戊辰戦争では有栖川親王の御警護軍として従軍し、解散の際に感状を受けている。明治二年(1869年)頃、同じ長崎街道の飯塚宿へ転任。明治四年(1871年)の廃藩置県で官職を辞した。
小学校が創立されたこの年、下代屋敷に隣接した自宅で、漢書・筆墨などを扱う店を構えたと伝わる(証書や写真は残っていない)。
飯塚のまちで創業。以来、教科書・教材を中心に、本と学びを届けてきた。
初代・慎平が亡くなり、録次郎が三代目を継いだ。二代目は、慎平の甥の徳太郎だった。
店を洋館に改築し、一時「宝文堂」と称した。三代目は、飯塚でいち早くオートバイを乗りこなし、映画館の設立に貢献、町会議員にも選ばれるなど、まちの発展に力を注いだ。


三代目が四十一歳で亡くなった。
慎太郎(二十八歳)が四代目を継いだ。
筑豊炭田の成長で、飯塚とその近郊の人口が急に増え、学校も増えた。一時は、教科書を取り扱う学校の数が日本一になり、その教科書を大八車で一校一校届けて回った。
組織を合資会社にした。
五代目となる栄吉が大学を卒業して入社。創業の年を調べ直し、近所の古老の証言と、西南の役を報じた「西日本新聞」の創業と同じ年であることから、明治十年を創業の年と定めた。
岩波書店の常備店になったのを機に、2階に専門書コーナーを設けた。創業七十五周年を記念して、小・中・高あわせて三十八校に全集を寄贈している。
1月、株式会社に変更。この年、飯塚市の街の地図を製作し、学校図書館のモデルコーナーをつくった。
炭鉱の閉山が続いて地域が疲れていく中でも、文化的なものを望む市民は多くいた。創業八十周年を記念して「学参まつり」を開き、第一回の文春講演会を主催。その後も、数年ごとの文春講演会や毎年の文学バスハイクを催し、地域の俳人グループなどが毎年楽しみに参加した。
飯塚市が学園都市を目指し、近畿大学・同女子短大・陸上自衛隊の誘致に成功。大学の誘致にあわせて、三階建ての店舗を新築した。『嘉穂地方史』(全五巻)も刊行している。
栄吉が社長となり、五代目を継承。慎太郎は会長になった。
慎太郎が、教科書供給の業務により、九州の書店人として初めて黄綬褒章を授与された。
創業百周年の記念行事として、掛軸展・学参まつり・感謝披露宴を催した。
6月、四代目・慎太郎が八十七歳で亡くなった。11月、のちに六代目となる元野木治比古が入社した。
暮れ、栄吉の入院を機に、治比古が実質的な経営の実務を引き継いだ。
10月、治比古が社長となり、六代目を継承した。
7月、五代目・栄吉が七十三歳で亡くなった。
3月、市の文化センター「コスモスコモン」ができたのを機に、店を改装オープン。新しい道路側に出入口と駐車場を設け、2階にあった売り場もすべて1階に移した。
7月19日未明の集中豪雨(今でいうゲリラ豪雨)で、お店のある飯塚市中心部の商店街が1.5〜2メートルほど浸水し、店内も浸水。大きな打撃を受けた。この前後には商店街で大きな火事も重なり、廃業や移転が相次いで人通りも減るなか、経営が厳しい時期が続いたが、「元野木」の屋号を守り続けた。
七代目・元野木正比古(もとのき まさひこ)が地元へ戻り、家業を継承。学校とのつながりを一から立て直し、教科書・教材の外商を再建した。
飯塚市の「リノベーションスクール」に参加。空き店舗・空きスペースの新しい活かし方を学び、地元の有志とまちづくり会社を設立した。
2階を、本もコーヒーも楽しめるフリースペース「モトノキノウエ」へ改装した。
本を積んだ車でまちを回る「移動書店」をスタート。お店まで来られない方のもとへ、こちらから本を届けている。
店舗の一部スペースに、地域の就労支援施設が入居した。
九州で初めて無人販売システムを導入し、24時間営業をスタート。有人営業(月〜土 10:00〜17:30)に加え、それ以外の時間も無人で利用できるようになった。
出典:日本商工会議所「月刊石垣」2026年2月号 掲載記事、および『金文会会員店紹介』掲載の沿革(354〜357ページ)をもとに要約・再構成した。詳しい内容はこちらの記事でも読める。